それまでは具足小路(ぐそくこうじ)とかくそ小路と呼ばれていましたが、時の天皇である後冷泉天皇が錦小路と改めたと言われています。
幕府が初めて魚問屋の称号を許し、上の店(かみのたな)、錦の店、六条の店を京都の特権的鮮魚市場として三店(さんたな)魚問屋とし、錦市場は本格的な魚市場への第一歩を踏み出しました。

京都市中央卸市場が開業になり、錦市場は卸売(量の商い)市場から小売(質の商い)市場として再出発を果たします。
阪急電車の河原町延伸で、錦小路を始めとする近隣地域の水脈が断ち切られ、井戸水が枯渇しました。しかし、錦栄会の働きかけにより、京都市より共同井水事業の許可が下り、井水設備の工事が始まりました。
錦栄会を発展解消し、京都錦市場商店街振興組合を設立。

京都錦市場振興組合青年部会が発足しました。以来、青年たちの感性によるイベントや他商店街青年部との交流が続けられています。
新アーケードに施された3色の朱、緑、黄で構成され、生鮮食品を鮮やかにみせるものが選ばれました。また、各交差点5ヵ所には天井画が設けられました。

錦市場の錦小路の歴史は古く、延暦年間(782-805)に開かれました。
7月12日付の淀魚市次郎兵衛による書付には、淀魚商人が錦小路で替銭をするよう書かれてあり、すでにこの時代には錦小路に数軒の魚店があったことを示しています。
明治維新後、株仲間、三店魚問屋の特権が廃止されました。その影響で倒産が相次ぎ、大店7軒にまで激減しました。
水産魚介類業を中心に「錦盛会」が結成され、錦市場は新たに活気を取り戻しました。

青果業や精肉業などの食料品店を加え「錦栄会」を設立。ここにあらゆる食料品を取り扱う「京の台所」として新たに出発しました。

大手スーパーが錦市場近隣の土地を一部買収し店舗を建設するという情報が流れました。そこで錦の組合員は地主から土地を買収して、大手スーパーの進出を阻止しました。

老朽化により、石畳の舗装工事に着工しました。工事期間中は共同井水の配水が停止され、水道水の使用を余儀なくされました。
商店街のブランド力を守るため、商店街にふさわしい出店希望者をあらかじめ登録を行い、出店時に積極的にアドバイスを行っています。
その他に創立40周年事業として取り組んでいる事業
- ・錦デジタルスケッチ展
- ・ファッションショー
等々


















