錦市場の魅力

ABOUT
伊藤若冲「菜蟲譜」佐野市立吉澤記念美術館蔵
伊藤若冲 菜蟲譜(部分)
佐野市吉澤記念美術館蔵

知る錦、体験する錦。

知ってから錦を体験するか、体験してから錦を知るか。
読めば、錦市場にもっと興味が湧いてきます。

いまに伝わる400年の歴史。

正式な記録によるものではありませんが、
市場としての起こりは古く平安時代のころ、すでにこのあたりに市が立っていたと推測されています。
時は経ち1615年、江戸幕府が京都に公認した
上の店(かみのたな)、錦の店、六条の店の三店魚問屋(さんたなうおとんや)の一つが錦市場でした。
それが、本格的な魚市場としての錦市場の始まりです。

錦市場の発展に地下水あり。

平安時代にこのあたりに市が立っていたと推測できるのは、この地が質の良い地下水に恵まれていたからにほかなりません。冷たい地下水は魚鳥の保存に適しています。さらに、人口の多い中心部にあったこと、位置的に御所への納入に便利であったことも錦市場の発展の理由として考えられます。

降り井戸:一年を通して15〜18度という水温を保つ地下水は「錦の水」とよばれ、京の台所を支えた名水として知られています。錦市場の各店にはかつて、この名水を利用した「降り井戸」が存在し、生鮮食材を保存する冷蔵庫がわりになっていました。

錦市場は京の食文化と共にある。

「京の台所」と称されることの多い錦市場。京野菜、琵琶湖の川魚、鱧、ぐじ、笹カレイ、湯葉、生麩など…。京料理の料亭や割烹だけでなく、おばんざいと言われる京都の家庭料理にも使われる新鮮な野菜、魚など旬の食材が一堂に集まってきます。京都独特の食文化にふれるのは他の場所では味わえない魅力です。お店の人から専門的な知識や食べ方などを聞くのも、楽しみの一つです。年末やお正月になると、前に進めないほどの人で賑うのも京の風物詩になっています。

だれが呼んだか、“くそ小路”。

御所に出入りする際に具足(鎧と兜)を外す場所であったことに由来し、平安時代に「具足小路(ぐそくこうじ)」と呼ばれていた錦小路。それが訛ったのか、「糞小路」と呼ばれた時代もあったとか。後年、錦小路と改名されています。

伊藤若冲と錦市場

奇抜な構図、卓越した技巧、見るひとの心を射抜くような色彩の作品で知られる伊藤若冲。
近年、日本にとどまらず欧米でも知名度と人気を高めています。
錦市場では店のシャッターをはじめ各所に、その絵を見ることができます。

錦市場の青物問屋に生を受ける。

最近よく知られるようになりましたが、伊藤若冲は錦市場の青物問屋の生まれです。錦市場の西の入り口あたりに、生家跡を示すモニュメントがあります。「野菜涅槃図」をはじめ若冲の描く絵画のなかには蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャ、柘榴、蜜柑、桃といった果物までが題材として登場します。

類稀なる絵師。

伊藤若冲(1716-1800)は江戸時代中期に京都で活躍した絵師。写実と想像を融合させた独自の作風から“奇想の画家”などとも称されています。ドギツイまでの濃彩、極小の細部にまでこだわった緻密な描写、空前絶後と言ってもよい独創的な表現で、他の絵師には見られない独自の世界を生み出しました。みずからの表現を追求し続けた結果、個性的で魅力的な作品の数々を残しています。

錦市場中興の祖。

明和8年(1771)から安永3年(1774)までの錦市場の動向を伝える「京都錦小路青物市場記録」によると、じつは若冲が錦市場の存続に関して積極的な活動をおこなっています。そのころ錦市場の営業をめぐる争議が起こり、若冲は画業を中断して町年寄として解決に尽力。その結果、錦市場は窮状を脱することになりました。若冲は錦市場の恩人であり、錦市場の「中興の祖」といっても過言ではないのです。

錦市場の象徴、
390メートルのアーケード。

道幅3.3メートルから5メートルの錦小路通りは、東西約390メートルに渡り、両側にさまざまな店が軒を連ねています。
インスタグラムに多く投稿されている、赤・黄色・緑のアーケードは錦市場の象徴のようになっており、雨の日も散策が楽しめます。

祇園祭と錦市場

日本三大祭りの一つに数えられる祇園祭。869(貞観11)年、
悪霊・疫病退散を祈って当時の国の数に合わせた66本の鉾を立て、牛頭天皇を神輿に祀り神泉苑に送ったのがその起源です。
山鉾巡行があまりにも有名ですが、八坂神社の祭神を奉じた三基の神輿渡御(神幸祭・還幸祭)こそ、祇園祭のメインイベントです。
そして、この神事には錦市場も大切な役割を担っています。

八角形の神輿、西御座。

屋根に鳳凰をのせた八角形の神輿に御神霊を移し、氏子町内を巡幸して7月17日夜に四条寺町の御旅所へお迎えし、24日に御本社へお帰りいただきます。八坂神社の本殿西側にお祀りすることから、この神輿を西御座(にしござ)とお呼びします。この神輿がいつごろ現在のような姿で渡御するようになったのかは不明ですが、「毎年7月、八坂神社祭礼には此処(三条台村)の住民より神輿をかつぐ與丁を出す。元禄以来今に変わることなし」という記録があります、「三条台村」とは二条城の周辺にあった村落で、この住民が神輿渡御に奉仕していたと思われます。

錦神輿会の結成。

大正13年ころからは三条台村に代わり、壬生村の農家が「壬生組」と称して神輿渡御に奉仕するようになりました。この壬生組も第二次世界大戦後に解散。八坂神社からの依頼によって、昭和22年からは錦組(現・錦神輿会)を結成し、私たちが担当するようになりました。

錦市場の歴史

782 延暦年間

魚市場「魚の立売り」の発祥

錦小路の魚市場の歴史は古く、延暦年間(782-805)に開かれたといわれていますが、確実な資料はありません。

1054 天喜2年

錦小路となる

それまでは具足小路(ぐそくこうじ)と呼ばれていましたが、後冷泉天皇により錦小路と改められたと言われています。

1311 応長1年

魚店の始まり

「淀魚商人が錦小路で替銭をした」という記録があり、すでにこの時代には錦小路に数軒の魚店があったことを示しています。

1615 元和1年

魚市場への第一歩

幕府が初めて魚問屋の称号を許し、上の店(かみのたな)、錦の店、六条の店を京都の特権的鮮魚市場として三店(さんたな)魚問屋としました。錦市場は魚市場への第一歩を踏み出しました。

江戸時代の京都の名所記
「京雀」に乗っている挿絵
1770 明和7年

青物立売市場の認可

奉行所が錦小路高倉に青物立売市場を認めました。

1771 明和8年

町年寄 若冲の活躍

商売敵であった「下の店」の策謀により、奉行所から「錦の店」の帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町は事実上青物立売市場の営業停止を言い渡されました。町年寄の若冲は、錦市場存続のために奔走しました。

1774 安永3年

錦市場が公認される

奉行所等と交渉を重ね、ようやく市場は公認されました。

安政定(安永3年)
左・表面、右・裏面
1883 明治16年

三店魚問屋の特権廃止

明治維新後、株仲間や三店魚問屋の特権が廃止され同業者間の過当競争のため市場は混乱を極め、明治16年ころには大店7軒にまで激減しました。

1911 明治44年

錦盛会の結成

水産魚介類業を中心に「錦盛会」が結成され、錦市場は新たに活気を取り戻しました。

京都錦盛会 創立50周年誌
宮内省大膳寮御中
鮮魚御買上乃通(大正4年)
1927 昭和2年

全国初の中央卸売市場の発足

京都中央卸売市場ができ、錦市場からも多くの店が移りました。

1928 昭和3年

錦栄会の設立

青果業や精肉業などの食料品店を加え「錦栄会」を設立。あらゆる食料品を取り扱う「京の台所」として新たに出発しました。

錦市場
1957年6月15日 京都新聞掲載
1963 昭和38年

京都錦市場商店街復興組合の設立

錦栄会を発展解消し、京都錦市場商店街振興組合を設立。

錦小路の魚店
1963年8月1日 京都新聞掲載
錦小路の魚店
1964年8月1日 京都新聞掲載
1965 昭和40年

共同井水事業の開始

京都市より共同井水事業の許可が下り、井水設備の工事により、昭和40年、井水事業が始まりました。

1984 昭和59年

石畳道路工事着工

老朽化した石畳の舗装工事に着工しました。

1993 平成5年

新アーケード完成

「柱なし工法」による現在のアーケードが完成しました。

完成した新アーケード
2005 平成17年

「錦市場」商標特許取得

錦のブランド力を高め、「錦市場」の安易な利用を防止するため登録商標をしました。

2006 平成18年

サンロレンツォ市場と友好協定締結

スローフード発祥の地であるイタリア・フィレンツェ市のサンロレンツォ市場と食文化の交流を目指して友好協定を締結しました。

2013 平成25年

振興組合設立50周年

京都錦市場商店街振興組合は50周年を迎えました。

錦市場へお越しの皆さまへ お願いとご案内

迷惑やトラブルになる場合もありますので、食べながら歩く行為はご遠慮下さい。
お買い求め頂いたお店の前やお店の中でお召し上がり下さい。