語り継ぐ錦

KYOTO NISHIKI

「錦市場は欲も深いが、奥も深い。」 vol.2:錦市場の暮らしを語る。

(五十音順)
京都錦市場商店街振興組合 代表理事会長

株式会社 桝俉 代表取締役会長 宇津克美さま

京都錦市場商店街振興組合 監事
株式会社 桒藤(くわとう) 代表取締役社長 桒山 貴さま

京都錦市場商店街振興組合 元副理事長
株式会社 島本海苔乾物 島本裕次さま

京都錦市場商店街振興組合 理事長
有限会社 のとよ 代表取締役 三田冨佐雄さま

向かって左から島本さん、宇津会長、三田理事長、桒山さん

錦市場を語るには、井戸と会所にふれておきたい。

「語り継ぐ錦」第2回目。
第1回目の続きとして場所を変え、話題も昔の錦市場の暮らしに変えて、語っていただいた。

この対談の場になった「伊豫又」さんは、創業400年。錦市場でいちばん古い歴史を持つ店である。
ここにはいまでも、降り井戸(おりいど)と言われる古い時代の井戸がそのまま残っている。降り井戸の中ほどには室(むろ)があり、冷蔵庫のない時代に魚などの保存庫として使われていた。錦市場の発展を語る上で、この「錦の水」と呼ばれる地下水のことは切り話せない。
昔も今も、商売も暮らしも、支えられているのだ。

そして「伊豫又」さんの向かいの路地奥(いまは「斗米庵」さんという店になっている)には会所があったという。
会所はいまで言う寄合所のような機能を持つ場所だ。「この会所にお地蔵さんがあり、昔は旧盆(旧暦7月24日)に毎年地蔵盆が開かれた」「町内から大勢の親子が集まりみんなでトランプをして遊んだり、数珠回しなどの伝統行事が朝から晩まで行われた」「紙芝居やパチンコの出店のほか福引きなどもあり、盆踊りや劇なども行われた」というような、ずいぶん盛大な縁日であった。

会所がなくなった後、このお地蔵さんは富小路と錦小路の角(「汸臼庵」さんの横)へ移され、現在も人びとの信仰を集めている。
ちなみに錦市場に会所は東魚屋町、中魚屋町、鍛冶屋町の3カ所にあった。
三田理事長によると「お地蔵さんは鍛冶屋町にもあったが、裏寺町の西導寺に預けてあり、年に一度はお参りしている」そうだ。
同じ裏寺町の宝蔵寺には若冲の実家である伊藤家の墓所がある。

会所の廃止とともに現在の地へ移されたお地蔵さん
商売をする人びとはいつの時代も信仰が厚い

ここで、地蔵盆以外の子ども時代の遊びについて話題を転じると、「ライオンズという名前のチームで野球をやっていた」という話が出た。

「野球をすると、なぜか島本さんはキャッチャー、宇津会長はファーストを守った」という。「島本さんはキャッチャーミットを持ち、宇津会長はファーストミットを持っていた」のが理由だそうだ。

では、なぜお2人がミットだったかというと、「さあ?当時はグローブよりミットの方が高価だったと思うけど、2人の家が儲けてたんかなあ。ハハハハハハ」と、声をそろえて笑うのであった。

もう1つ面白い話がでた。同じころローラースケートが流行っていたらしいが、ここでもお2人は「“レミントン”という高級ブランドのものをヤミ市で買ってもらって所有していた」そうだ。
「道路にはクルマも走っていないし、ゴーッと勢いよく音を立てながら滑ってマンホールを跳びこえるような荒技も披露していた」らしい。「ムチャばっかりやっていたな」と、当時を振りかえるお2人であった。

昔は徒弟制度だったから、たくさんの住み込みがいた。

「昔の店は徒弟制度で、従業員は住み込むものとされていた」「それには、“鰻の寝床”と称される間口が狭く奥行きが深い京の町屋が適していた」錦市場でも古い構造を残す店は、いまも“鰻の寝床”のように奥行きが深い構造になっている。

「店から裏の仕事場に通じる通路に沿って部屋が5つ〜6つもあり、女中さんの部屋や職人さんの部屋があり、そこに暮らしていた」「行儀見習いのために奉公するお手伝いさんも多かった」「朝は主人がまず神棚に手を合わせて商売繁盛を祈り、忙しい1日が始まった」

「錦市場は欲も深いが、奥も深い。」錦市場の住宅構造と商売熱心な気質を表す上手い言葉を、宇津会長から聞くことができた。

奥に神棚があったり、お札を祀る店は多い

いまも残る江戸の暮らし。

いまもまだ錦市場には、古い時代の錦市場の匂いを残す店が多くある。
今回、お店の中を撮影させていただいた「山市」さんは、正確な記録としては残っていないというものの、江戸時代後期から続いている錦市場でも十指に入る老舗だ。
京都の正月に欠かせない棒鱈を、この店ではいまも錦の地下水で戻している。

この店の奥に残っている住居部分を中へ進むと天井の高い位置に天窓がある。電気のない時代にはここから明かりをとっていたのであろう。
あまり手を入れていないという台所は明治期から変わっていないようだ。昔使われていたであろう大きな釜がいくつも残っていた。
神棚やお札が店のあちらこちらに祀られ、商売人の信心深さを感じさせる。
外に出ると漆喰の壁に格子窓が配され、そこには魔除けの効験があるという鍾馗さんの人形が置かれていた。

この店の中の空気を吸いながら目を瞑ると、はるか昔の暮らしが浮かんでくるようだ。創業当時の面影をいまに伝えているこんなお店が残っているところに、錦市場の魅力と奥の深さがあると言えよう。

さらに、山市さんの分家だというお隣の「器土合爍(きどあいらく)」さんの奥も見せていただいた。店奥には古い土蔵や井戸が残されていた。
こちらは多少手を加えられているせいか、「山市」さんを加工業の住まいというなら、落ち着いた商家の住まいのような趣きがある。
それはそれでまたひと味違う錦市場の暮らしと言えるのだろう。

(注:どちらのお店も、勝手に奥に入るなどの行為をしないでください。)

山市さんの店奥(高い位置に天窓がある)
山市さんの店奥(神棚やお札が祀られている)
山市さんの店奥(縁起物が飾られている)
山市さんの店奥(いまは使われていない古い井戸。ここにも井戸の神さまへのお供えがあった)
山市さんの店外(漆喰の壁、格子窓、古い屋根瓦。そこには鍾馗さんが置かれている)
器土合爍さんの裏庭に立つ土蔵
器土合爍さんの裏庭に立つ土蔵(天窓と屋根瓦)
器土合爍さんの裏庭に残る古い井戸

表の商売、奥の商売。

錦市場には「表の商売、奥の商売」という言葉がある。
「表の商売」とは一般客を相手にする小売りを指す。「奥の商売」とは一般客相手ではなく料亭や旅館などへの卸売りを指す。また、奥という言葉を使った言い方で「奥の間」というのもあるが、こちらはどちらかというと「作業場(店の奥の作業をするところ)」のような意味で使われている。

そんな「奥の間」と「奥の商売」の様子を「湯波吉」さんと「丸弥太」さんに見せていただいた。
「湯波吉」さんは江戸時代(1790年)創業、錦市場唯一のゆば製造販売店である。いまも店の奥の間で伝統の手作業で商品を作り続けている。
老舗旅館や有名料亭を顧客にもつ丸弥太さんは、「奥の商売」だけでやっている。通りからは見えない店の奥の水槽に泳ぐ活けの魚が、この店のメイン商品である。

余談ではあるが、湯波吉さんのご主人から「奥の商売とは卸売りのことを指すんですけど、長く深い付き合いのある常連さんだけのとっておきの商品という意味もあるんですよ」と、教えていただいた。

湯波吉さんの奥の間。まさに、ゆばづくりの作業中であった
丸弥太さんの奥の間。生簀の中には魚が泳いでいる

金の井戸、銀の井戸。

錦市場と地下水の話をここでもいろいろと書いてきたが、宇津会長からこんな話を伺った。
「昔から錦市場では、どの店にも井戸は2つあるものなんです。1つは『金の井戸』、そしてもう1つは『銀の井戸』と言います。意味がわかりますか?」

「わかりません」と、素直に言ってみると、金の井戸はお金が入ってくる井戸のことで店用のもの銀の井戸は飲み水や洗い水に使うもので家用のものだと言う答えが返ってきた。

いまでも錦の地下水は組合の井水事業として、地下からモーターで汲み上げ
て各店に届けられている。薄味で出しを生かす京の食文化に良い水は付き物。そして、名水があったから、江戸時代に三店(さんたな)魚問屋になれたといいます。三店はどこも名水があったそうだ。

水の歴史は錦の歴史だ。錦の地下水は、錦の命の水と言っても過言ではない。
これからも、水を大切にしながら、錦市場は未来へ向けて発展していくだろう。

※三店魚問屋:徳川幕府が初めて魚問屋の称号を許し、上の店(かみのたな)、錦の店、六条の店を京都の特権的鮮魚市場として三店(さんたな)魚問屋とし、錦市場は本格的な魚市場への第一歩を踏み出した。

伊豫又さんに残る降り井戸の内部
伊豫又さんに残る降り井戸の内部
冷蔵庫のない時代。この室に魚などを保管した

6月7月は神輿の話ばかりになる。

錦市場では太平洋戦争の傷跡も癒はじめた昭和22年に子供神輿が復活して
いる。今日お集まりいただいた三田理事長もこのとき参加している。

皆さん高校生になると待ち兼ねたように祇園祭に参加し、神輿を担いできた。「梅雨時でジメジメして身体は怠いのに神輿を担いで汗をかくとなぜか身体がシャンとした」という。神輿を担ぐことで組合の青年部会の結束力が高まり、みんなが集まると6月7月は神輿の話ばかりしているそうだ。

錦市場全体が一本にまとまって一枚岩になれる原動力。それが、祇園祭の神輿担ぎだ。

昭和22年の子供神輿(三田理事長提供)

こぼれ話をひとつ、ふたつ。

これは、宇津会長が桒山さんの大叔父(祖父の弟さん)から聞かされた話として披露していただいた。

「魚や野菜の出始めのことを“走り”というが、それは桂川の船着場にあがった魚を鳥羽の人足が走っていちばんに錦市場に持ってきたから、そう言われるようになった」と、いうものだ。

“走り”の由来はさまざまあるが、当時の錦市場の賑わいと威勢が伝わってくる逸話だ。

“京の台所”の由来と、いつごろから言われ出したのかを皆さんにたずねてみた。
これに関しては、物心がついたころにはすでに言われていたようだ。
「あくまでも推察だけど、三店魚問屋の一つであった江戸時代に繁盛し、いろんな食材を扱う店が増えてきた結果、いつの間にか自然に言われるようになったんだろう」と言うことであった。

相変わらず、運動場が狭いなあ。(笑)

座談会の最後に皆さんが通っていた生祥(せいしょう)小学校まで歩いて行った。
ここは番組小学校といい、番組(いまの自治会のようなもの)が設立した学校だ。京都有数の古い歴史を持つが、いまは他の小学校と統合され、廃校になっている。

「島本さんは足が速かったなあ」「小学中学と毎日一緒に通ったなあ」「相変わらず運動場が狭いなあ」など、話の名残りはつきない。

今日お聞きしたことの、その根底にあるのは“錦のこころ”と言ってもいいだろう。この“錦のこころ”こそ、次の世代へ語り継ぎ、受け継いで行っていただきたいと思った次第である。

向かって左から桒山さん 宇津会長 島本さん(三田理事長は仕事で途中から退席)

皆さん、長時間、ありがとうございました。
(取材日:2020年12月17日)

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